モンゴル大草原に響きわたるけん玉
(西中国・四国地区総支部長 今田 弘武 八段)
1996年1月17日,日本全国を震え上がらせた大地震,多くの生命を,幸福な家庭を,生産活動中の工場を一瞬にして破壊しつくした。
私は一週間後,けん玉と生活用品一式を軽ワゴン車に積み込んで神戸へ,暗い夜9時の出発,妻・子どもに無事に戻ってくるか不安に包まれての見送り。須磨区の池田警察所に到着,それから神戸の街に車で入れなかった。すぐに近くの池田小学校からけん玉活動を開始。
公共設備の空間はすべて避難所になり,学校の廊下も生活の場で子ども達は屋外で遊んでおり,けん玉がそのスキ間で笑顔作りを始めた。関西総支部長の矢野さんの支援を受けて,板倉さん他2名が駆け付けて下さり,けん玉が活躍。
ボランティア仲間から西区の仮設住宅でけん玉をやってくれと,ここでもけん玉がヒット,予想もしていなかったお年寄りの笑顔に包まれて,和やかな時がもてた。責任者のUさんが今夜は仮設に泊まっていくよう配慮して下さり,Uさんと懇談。8月にモンゴル大火災で被災した遊牧民の激励に行くプログラムを聞き,けん玉も参加したら子ども達が喜ぶと話され,すぐに行きましょうと返事。
1996年8月,けん玉200個を持って,Uさんのチーム8名に関西空港で合流しウランバートルに飛んだ。市内の学校に行ったが,子どもの姿はなかった。夏休暇で全員草原に帰っていた。けん玉は空振り。遊牧民を訪ねて大草原に・・・けん玉を始めたが,子どもよりおじさんが熱中し,ヤッター!!できた!!と。
一つの遊牧民家族だけ・・・これではあまりに哀しい。しかし,どうにもならない。子ども達に会うなら冬に来なさいと言われ,1997年12月, -35℃のウランバートルへ,乙吉先生,私の息子,3人で乗り込んだ。ウランバートルで活躍中の日本人は多く,その中の一人に広島出身でこちらの大学で日本語,日本文化を担当の木本文子先生の下宿に転がり込んだ。
モンゴル体育大学でけん玉をやり,運命的な出会いがあった。軽い気持ちで参加されたチメグ先生(音楽舞踊専門学校体育教師),けん玉の教育的,人間工学的魅力を感じ取り,自分の生徒にやらせると,体育大学学長のガントムル氏が自宅に泊めて下さり,けん玉活動はトントン拍子に進行。事態は好展開。モンゴル語は使えなくても,木本先生の生徒が通訳。けん玉語も活躍し,砂漠に水状態でけん玉がモンゴルの大地に根をおろし始めた。
モンゴルに来たら伝統音楽・馬頭琴の音色を聴かないと帰れない。木本先生が馬頭琴の大演奏家ツェレンドルジさんの自宅へ(アパートの四角い部屋をゲルの内装に仕立て,演奏と食事を)案内し,伝統音楽・馬頭琴とホーミー,そしてモンゴル料理とモンゴルウオッカを堪能。日本側からけん玉,尺八を紹介。初めての出会いなのに旧知の仲? モンゴルと日本のつながりは赤ちゃんのお尻の青い斑点にありか?・・・ けん玉をモンゴルに広めるなら私の家を使いなさいと・・・次回からツェレンドルジさん宅が拠点となった。
木本先生がモンゴルのけん玉窓口を受け持って下さり,ウランバートルからエルデネト市,ホブド市に拡大,モンゴルけん玉協会の発足。自分達が持参するけん玉は,夏800~1000個,冬は300個,精一杯の資金をかけて。それに夏のけん玉合宿は参加費用を日本側負担。今振り返ってみてもよくやれたナー。何人かの限られたスタッフの協力に改めて感謝。モンゴルけん玉協会に参加する子ども達にお金がないのは明確だから致しかたない。
子ども達は皿が半分に,けん先が10mmちびるまで使っているので,新しいけん玉を待ち望んで・・・
彼らは私達を待っているのではなくけん玉を待っていたのです。モンゴルで自作したけん玉を使ってみたが,材料がやわらかい木なので使えなかった。
モンゴルけん玉の響きは勢力を増すばかり,日本人旅行者がけん玉を見事に楽しんでいる子ども達を街でみかけ,首をかしげるほどに定着。大阪から関西総支部長の矢野さんの強い協力で,支援活動は大きな流れとなり,広島大学けん玉サークル総帥(当時)の窪田保氏は国内活動もモンゴル活動も力強いものとし,春休みのモンゴル訪問を定期化し,現在に及んでいる。
2004年6月の関西総支部主催・ワールドオープンけん玉大会からモンゴル全国けん玉道選手権大会優勝者を招待(同伴者1名)して下さり,けん玉で日本に行けることがモンゴルの人々に大きな夢を提示することになった。けん玉を通して,日本国の理解が拡大し,日本に留学し大学を卒業,帰国して活躍している青年もいる。今年4月には,私達の活動に小学生時代から参加,6段の力をつけたモンゴル国立大学生2名が東京に留学して来ました。
私は2006年2月定年退職。会社生活のお陰で子ども5人を育て終え,退職後は定職を持たず,収入はなし,年金も出ないまま,家族には私を頼りにしても無能力だからと宣言し,毎日が日曜日,豊かな時間をいただいて,東に西にけん玉ルックで走り回ってきた。退職後4年が経過。行動範囲はモンゴルだけでなく,中国の内モンゴル,台湾,マレーシア,香港,東アフリカと拡大するばかり。
私にはもう一つ役割がある。広島に生まれ,育てられ,今がある。私の父は65年前の8月6日8時15分,原子爆弾によって26歳で殺された。私は母の体内で原爆投下直後2日後の瓦礫の中,父を捜し歩いた母と・・・父の身は捜し出されず,失意の母は田舎に帰った。女手一つで育ててもらったその母が原爆症で亡くなって8年になる。モンゴルで8月6日を迎えることが多く,木本先生が原爆の資料を保有されていて原爆写真展を。被爆者として原爆の悲惨さが今も続いていることを伝え,折鶴を折り,折鶴の歌を尺八吹奏し,核兵器のない地球を実現する活動を実施している。
今年の夏,7月:ウランバートル,ガザルチン大学生2名を「けん玉と平和学習」をテーマに受入,保育園,小学校,地域でけん玉とモンゴル紹介,平和学習活動をし,帰国。8月は夏のモンゴルけん玉活動,大阪から佐野さん親娘と一緒に行動した。ガザルチン大学を訪問し,学長より「けん玉スポーツ教師」の任命証を受け取り,冬季の活動中,大学で日本文化とけん玉の授業を担当する。(ガザルチン大学で日本語科担当の伊藤 新先生がけん玉活動を支援して下さり,モンゴルの学生と結びついている。)
帰国する日,スポーツ体育省に招かれて,モンゴル政府より,スポーツ体育功労者賞の勲章をいただきました。私には猫に小判。この勲章の重みがピンと来なかったが,モンゴルけん玉協会の面々が「モンゴル人でもこれをもらった人は少ないすごい勲章だ」と大喜びしてくれました。
14年間の活動を振り返るといくつもの泣き笑いがあった。遊牧民の息子が仲間におり,雪害で家畜が全滅。種馬を買うための資金にスタッフの所持金を提供したこと。学生のお母さんが乳ガンで手術が必要。手術費がないとこれも所持金をはたいて局面打開:・・・e.t.c.
けん玉の持つ力は無限大。故藤原一生十段のけん玉にかけた熱いおもいは今もメラメラと燃え続けています。けん玉のできない子はいない。けん玉を手にすることのない子どもは淋しい人生を過ごすことになる。一人でも多くの子どもにけん玉を体得してもらいたい。
私が乙吉師匠に出会い,けん玉をプレゼントされ,けん玉の道を歩みはじめ,世界中に仲間が生まれてきた。この幸せに感謝し,故藤原会長ゆずりの「熱いおもい」を体現し,恩おくりをしていきたい。
(2010年10月20日発行 けん玉通信 No.190より)