第4章 日本のけん玉の誕生


日本けん玉史における「けん王」のルーツは、語源的には平安時代の曲芸「品玉」等であるといわれておりますが、フランス型(B型けん玉)は、安永六、七年(1777年)頃、日本に初登場(文献「嬉遊笑覧」:きゆうしょうらん)しております。しかし、イギリス型(C型けん玉)の最初の文献は、明治八年(1875年)文部省発行の翻訳本「童女筌」(どうじょせん)です。B型の登場からC型の紹介まで約100年の時間が必要であり、日本史上の鎖国政策が日本けん玉史に与えた影響の大きさを示しております。また、発行が文部省であるというのは、日本けん玉協会が文部省体育局生涯スポ一ツ課の所管と開係しているようで不思議な縁(糸)で結ばれていることを暗示させます。

(1)「童女筌」のけん玉用語の紹介

盃及ヒ球=けん玉、木球=玉、一鳥=穴

なお、「彼木球ノ一鳥ヲ捉ヘント欲スルニ在ルノミ」の表現は、空中の玉の穴=飛んでいる捕らえるのが困難な一羽の鳥を捕獲するイメージであり、現在の技「うぐいす」の命名の原点が翻訳本「童女筌」にあることに驚かされます。

一竿=けん、盃=皿、尖点(せんてん)=けん先、戯者=遊び手

なお、「童女筌」の演技は、いわゆる現代の中皿ととめけんです。

さて、この翻訳本「童女筌」は明治8年に初版が発行され、第4版まで国会図書館に複写禁止の厳重保管書籍として保存されておりますが、その後絶版になったと推定されます。教育史的には明治4年創設の文部省の方針が、遊びも含んだ欧米文化の吸収から、明治13年の改正教育令の遊び以外の技術志向への方針転向と微妙にオーバーラップしていることは偶然でしょうか。明治時代にけん玉文化資料が極めて少ないことと無関係ではないようです。

(2)日本固有のオールマイティ型の登場

突然、大正デモクラシー時代に、ついに現在の日本のけん玉(A型けん玉)が大流行したのです。基本要素のけん、玉、皿、穴といった組合わせを全て具備した理想的けん玉が登場したのです。なぜ、この時期に登場したのでしょうか。翻訳本「童女筌」の初版から50年間が何故必要だったのでしょうか。その答えは、偉大な進化を成し遂げるには十分な時間と心のゆとりが必要であるという「温め仮説」=「あせらず、あわてず、あきらめず」であると思います。

(3)スポーツけん玉の登場

この様な進化の過程をへて、A型けん玉の登場からさらに50年後、昭和50年5月に、日本けん玉協会会長藤原一生十段が、日本けん玉協会を創立し、画期的な糸穴付きの公認けん玉を発明したのです。この左右2つの糸穴付きけん玉は、右利き又は左利き用に糸を自由に付け替えることができる近代的なスポーツへと脱皮できる糸口を作りだしたのです。 そして、その成果は、文部省も認めるすばらしいスポーツの祭典としての文部大臣杯全日本少年少女けん玉道選手権大会の開催にまで花開き、日本の未来を担う子供たちの生活科教材にも取上げられ、けん玉の社会教育的意義はますます高まり続けております。

狩猟という仕事道具の訓練用具から出発して、遊戯用具へと進化し、ついにスポーツ用具へと高度な進化を遂げたのが、現代のけん玉なのです。

次回最終回では、高度情報化社会と人間重視の21世紀のけん玉を検証します。

(2000 けん玉通信 No.114 より)